サッポロ シティ フォーカス

the sight where I met the unconscious of a city, which was crossing the city consciousness.

ファンニー・ピオ(fanny pio)に聞きたい物語

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農学校の生徒のためにクラーク宛に聖書を送ったルーサー・ハルセィ・ギューリック宣教師の子供シドニー・ルイス・ギューリック博士が、1927年合衆国から親善の心から日本の小学校へ送った人形が飾られていた。目の周りが痛んでいて、泣いたあとのようにも見えた。

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日本に20年程住んでいた博士は、子どもの頃からお互いの 国の文化を理解することが将来の両国の友好につながると考え、雛祭りにあわせて人形を贈る計画をアメリカ全土に呼びかけたという。

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260万人の協力で12,739体の人形に、手縫いの洋服を着せられ、雛祭りに送られたそうだ。下写真はその時の服。その後、ここ5,6年の間に、新しい服が着せられたらしい。

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日本からも返礼として人形を受け取った学校から一人一銭の寄付が集められ、一体350円程度の人形が作られたそうだ。当時、先生の1ヶ月の給料が40円だった頃というから約半年分。58体製作され日本人形をクリスマスにアメリカの各州に贈られ、博物館や美術館などに保存されたという。120115d

ここは、度々コンサートが開かれる2階。

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この彫刻は、やはりコンサート等が行なわれる市民ホール前の彫刻(希望)。日米両国の希望の証だった人形の話には残酷な続きがある。その14年後、1941 (昭和16)年太平洋戦争が始まり、アメリカから贈られた友情の人形も、「敵国の人形」「敵国のスパイ」として、燃やされたり、竹やりでつかれたりして壊され、その大部分が処分されたという。 

 しかし、そんな中でも「人形に罪はない」として、学校の裁縫室の戸棚の奥や倉庫などに密かに隠された人形もあり、現在約300体残っていてその一体がファンニー・ピオ(fanny pio

ところで、私はそそっかしさで、fanny pioをファニー・ドールと呼んだのだが、カタカナを良く見ると、「ファンニー・ピオ」とある。時計台で写真を撮っていると、館長の知り合いの方が近づいてこられて、色々話す内館長を連れてきてくださった。お忙しいのに申し訳ありません。その際、1989年に開かれた展示会の写真を見せてくれた。ありがとうございました。この記事を読まれる事がありましたら、御礼の気持ちを持っていたことをお伝えしたいと思います。下がそのカタログ写真。立ち姿も愛らしい。で、普通Fannyは、ファニーなのに、なぜかファンニーなんですと話しておられた。

帰宅後、ふと疑問がわいた。合衆国から来た人形なのに、この名前はアメリカ人の名前?Fannyは英語では「ファニー」だが、ドイツ語圏で「ファンニー」という名前であり、Pioピオはイタリア人の名前らしいことをウェブ検索で知る。

米国との戦争が始まり、この人形を守るために同盟国ドイツとイタリアの名前が付けられたのだろうか?ざっと調べたが分からない。処分されずに残すための小さな物語があるのだろうと想像した。

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