受難日を過ぎて。
昨日は、イエスの処刑を覚えて過ごすべき日だったのだろうに、普通に過ごした。
キリスト教徒になりたいのに、十字架についてどう考えてゆけばいいのか相変わらず分からない。
結構、なさけなく、自分に苛立った。誰かが、今、苦しんでいても、それを想像するのは怖い。
地下街へ降りると、リニューアルされた鳥かごで、インコたちは暖かく養ってもらっていた。
鏡に映った自分を別の鳥と勘違いしているときもあるようだけれど、
のんびり童話していた。
無関心という自分の残酷さが、寒かった。
昨年の希望さえ寒い。
「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑っていった。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい。』」ルカによる福音書23章35節。
生活の接点がないと、かつての知人の悲しみや苦しみでさえ遠い・・・。
懐かしむことも、思いやることも、おこがましく思え、造った感情に思えて、手がでない。
わからなさを抱えて飛ぶ。
庭の葡萄の木が、地を這っていた。