流れに沿って歩く。
西側の方は、階段があって、川べりまで降りてゆけそうだ。
川の横に、水が流れていただろう溝がある。
木の橋もかけてある。
もしかすると、支流を意図的につくって、氾濫を予防しているのだろうか・・・。
この先で、絵画教室の子供たちに、川の流れを描かせたときがあった。 動きを表現するという難題に向き合ってもらった。 形にならない感情の動きに、こころを向ける方法としてのフォルメンを模索していた。 ひとところに留まらない事と、行けばいつもそこにいるという不思議。川。この先には、実家もあって、一人でスケッチにきたりした。川から上流をみると、30年前と変わらない。 近くへ眼を戻す。かものつがい。 美しい雄が、ひっきりなしに食べている。 めだたない雌は、一生懸命毛づくろい。(撮れなかったけれど・・・。) 「どこへゆくの?」「腹が減った・・・。」 「さっきも、食べたでしょう。」「うまくないから、少ししか食べていない。」 「あら、私は美味しかったけど。それより、きれいになったでしょう。」 「ああ、きれいだ、きれいだ、それにしても腹が減った。」 「そこは、さっきも食べに行った場所よ。」「やっぱり、ないのか。」 「私が探してくる?」「頼むわ。」などと、言い合っているようにも見え、なんだか楽しくなる。 こうした流木の下に、魚類が生息する。 さて、線路近くまで、歩こう。 柳と、川、背景全部とって、パンフォーカスにしたいけれど、見えているのに・・・。なってない・・・。 ああ、いつになったら、露口氏のように、なにもかもが一気に見えて聞こえて嗅げて触れているのに溺れていない写真がとれるのだろう・・・。 そんな写真を見せたら、、ああ、お母さんわかっていたんだね、と家族が言ってくれるかもしれない・・・。 愚痴は、止めて、ともかく撮ろう。が、ここで行き止まり・・・。 線路の向こう側への道がありそう・・・。 一端、土手の上にでて、 対岸を歩く。 ゆけそう・・・。 先ほど見ていた場所から、先ほどの場所を見る。 先ほど見ていたものを、別の場所からみる。 聖書の中の「悔い改める」の原語は、「向きを変える。」の意味もあるらしい。 あ、こんなところに、トンネル!! 可愛い絵!子供の絵を見るのは久しぶりだ。 「大人は子供にはなれない。せいぜい子供じみるだけだ。」といったのは、カール・マルクスだった思う。 自分が下手かもしれないなんて、思っていない。自分の絵が見えていない。自分が見えていない。 でも、自己懐疑に毒されていない。 子供達の表現に助けられて、線路下のトンネルをくぐった。