イースター。
昨夜の雨が、葡萄の蔓に残っていた。復活を記念する朝は、曇っていた。
イエス甦りの朝も、当時の多くの人にとっては、めだたない何時もと変わらない日だったのかもしれない。
病人を次々に具体的に癒し、普段、声をかけられることもない人に声をかけ、皆が忘れかけていた神への想いを語って歩いた姿をうっすら目の片隅に思い出しては、打ち消したのかもしれない。
久しぶりに聞いた教会説教は、弟子たちの心情に焦点をあてていた。(この写真は、教会の庭。先の写真は自宅。)
イエスに従った弟子たちは、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」ヨハネによる福音書20章19節。 無理もないとは思う。十字架処刑の現実は、何度も映画になっているが、悲惨のきわみだ。 しかし、一緒に死ぬとさえ言っていたのに、皆逃げたのだ。悔恨と絶望でいたたまれなかっただろう。イエスがそこへ来た。顔をあわせられない。はじめは嬉しいより、むしろ隠れたくなったのではないかという。けれど、この後、弟子たちが、復活を熱烈に伝えていったところにこそ、神の働きを感じるという。 よほどの何かを受けたということなのか・・・。 イエス復活の言葉は、「あなたがたに平和があるように」ではじまる。 この教会の祝祷も「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように」(写真の花は、筆者自宅の花)